何事も全力で取り組む
何事も全力で取り組む事を忘れないでほしい。
中途半端に取り組んでいたら、失敗だけでなく、成功も只の現象となってしまい、結果的に手に入るのは後悔と不安や不満の日々の可能性が高い。
全力で取り組んでいたら、成功は自身の価値を高める大きな宝となり、失敗でさえも新しい扉を開く鍵となる。
例え失敗してしまって、その時は不本意な結果や望んだものが手に入れられなくても、光輝く未来が、心から喜べる未来が待っている。
そう信じて何事も全力で取り組んでほしい。
自由研削砥石取替え・試運転特別教育修了
自由研削砥石取替え・試運転特別教育を受講。
受講理由は、安全管理に対しての知識と意識の向上の為(現場で怪我や事故を出さない出させない)、そして自己の成長の為。また資格取得はライフワーク。
講習内容は、鉄や加工物等を切ったり削ったりする工具の刃(といし)の取替え方法等の基本的知識や災害事例、関係法令について座学がメインで実技が少し。ちなみに刃の取替え及び試運転は、法令によってこの講習受講者しかやってはいけない事と定められている。
問題点は、鉄などを簡単に切ってしまう高速カッター等を使用する超危険作業にかかわらず、誰にでも作業は可能であるという点だ。(刃の取替えと試運転のみ講習が必要)
とりあえず現状は作業フリーで怪我や事故のリスクが非常に高く、災害もコンスタントに発生(体の一部を切断したり運が悪ければ死亡するケースも有り)という状況なので、取替えや試運転に拘らず、包括的に注意、対策を講じていきましょうという話、結論としとは。
法令で決まってしまってるから、罰則があるからとか、現場で仕事をする為だけとかで、とりあえず砥石取替えの講習に参加をする、それだけじゃ御粗末だよねという話。
バチクソ緊張
バチクソ緊張。
本日定時制高校の入学試験(高卒編入学志願)があり学力と面接の試験があったが、面接でバチクソ緊張した。
やっぱりダメ人間やなーと改めて実感。
転職の面接に比べれば、雰囲気も質問内容も質問数も時間も面接官の人数も桁違いに楽なものだった。しかし緊張した。自分らしいと思った。だからこれからも頑張れる。
書き言葉を伝えようとしたのが一番の失敗の原因。自己申告書を上手くできたと変に自信を持ってしまい、それを綺麗に伝えようとしてしまった。
もし、それをやるならば徹底的にやらなければいけないしツメが全然甘かった。
しかし、やはり魂で伝えるのが一番だと思った。今までどおり泥臭く本音を愛と魂で伝えていこう。
そして反省するところは反省し、本音をしっかりと言葉で伝えれるように訓練をしようと思います。
自身のレベルアップのスタートラインと同時に、今日はそのような機会となった事も感謝。
妻にも感謝。大切な友達にも感謝。自力で実ってくれている野菜にも感謝。裸踊りを披露してくれるおチビちゃん達にも感謝。自然に感謝。目に見えない大きな力に感謝。父親に感謝。
成長したい理由は、勿論色々あるけど、子供に恥ずかしくない人間でいたいが一番と思ったけど、それじゃない。やっぱり父親に認めてもらいたい。父親は仕事にすごく苦労して人生を終えたから、今会ったら自分よりも偉くなったと言ってくれると思う。しかし、もし天国で再会できたら、ただ一言よく頑張ったと言ってもらいたい。だからその為に頑張り続ける。その結果、子供たちが私の事を誇りに思ってくれたら嬉しい。
また明日から頑張ります。
どれだけ魂を磨くか
どれだけ魂を磨くか、また磨ける喜びを感じて感謝できるか、その事にこの一瞬一生を捧げたい。
もし人間の創造主が明確にいたとして、人間に生きる意味を作っていたとしたら、それは魂の研磨なのではないかと思っている。もしくはその意味を達成する為の手段や方法が魂の研磨なのではないかと思う。
人間は魂の旅をしているというのが空想や希望が入り混じった個人的見解だ。ゴーギャンの作品タイトルでもある、我々はどこから来たのか我々は何者か我々はどこに行くのか、というような哲学的な問いの、根本的な答えには辿り着く事も出来ないだろうが、それでも人間はいつの時代も時間も空間も超える壮大な魂の旅をしていると思っている。それを軸として考えれば、仮の住処はいつだって異なりそして移ろうものである。その中で魂だけが不変であり普遍であるからこそ、精神の変化、充実に価値があるのだと思う。それと個人的に、人生に対しては安易に生きる目的や意味を定めるべきではないとの思いがある。過去に浅はかにも信じ込んでしまった結果、何度も頭を打ってきたというのが大きな理由ではあるが、ただひたすらに研磨を続けた先で、思いもよらずに何か大きなものを得るという流れが健全であり、真理であるような気が今はしており、何より自身の性分にあっていると感じている。
そして道中を楽しむという言葉があるように、有難い事に鍛錬する事に喜びを感じ感謝の気持ちがあるので、その一点を目指して突き進みたい。
不可能と言われた林檎
不可能と言われた林檎の無農薬栽培に挑戦した木村秋則さんの物語は、もし成功していなければ悲劇でしかなかっただろう。只成功したから良かったと簡単に言えるものでもない。木村さんは光に辿り着くまでに死を覚悟する程あまりに長くて暗いトンネルを歩んでこられたし、今木村さんを照らしている光は人類最高の栄誉とも呼べる、全宇宙から注がれているかのような奇跡の光である。事実は小説よりも奇なりと言うが、個人的にこの事実は大切な教訓が隠されている昔話やお伽話の部類のように感じている。
林檎農家の木村秋則さんは、自然環境の為、何より散布する農薬に苦しむ愛する妻の為に無農薬栽培を決意する。そして仕事、学びへの愛情が木村さんと無農薬栽培を深く結びつけていった。しかしと言うのか得てしてと言うのか、木村さんの情熱の高まりとは反比例する形で、彼に対する周囲の言動は度を越えたひどいものになっていった。人類未到達の挑戦は理解されない苦しみがあったが、木村さんはその事も理解していたので、木村さんは他人への愛情、礼儀を忘れた事はなかった。木村さんは無農薬栽培に励む中で、林檎は勿論の事、生物ひいては害虫まで愛情が生まれた。木村さんは愛の人であり、その事が奇跡だった。すべてのものが彼に引き寄せられていった。しかし表面上事態は一向に好転しなかった。むしろ状況は悪化する一方で、木村さんにはこれ以上の打つ手が無くなってしまった。そして彼はすべての責任を取る為に命を絶つ決意をした。真っ暗な山の中をぶら下がれそうな木を探して彷徨った。木村さんはこれと決めて首を吊るためのロープを木に枝に投げた時、大きく手元を狂わせてしまった。そしてそのロープを拾いにいった方向にぼんやりと輝く林檎の木を見つけた。よく見るとそれは林檎の木ではなく胡桃の木だったが、自然の山の中でも健康に美しく成長する姿に大きな衝撃を、そして胡桃の木を取り巻く自然や土壌にインスピレーションを受けた。そして木村さんは、自分の畑に反映して繁栄させる事に成功して、林檎の無農薬無肥料栽培を実現させた。私は、この事実は神様も木村さんに引き寄せられた結果なのだと強く信じている。そして、この美しい愛の物語であり素敵なおとぎ話が、永い年月をかけてたくさんの未来ある子供達に読み聞かせられる事を切に願う。