woodenvalleyのブログ

日々感じた事や思った事。大切にしてる事。ふとした事。子供の事。

試験合格は最低条件

試験合格は最低条件と言うと、聞こえは良いかもしれないが過言ではない。見えない力によって生かされ、向上心を養いながら日々健康に過ごす事が出来ている。また、信頼できる仲間の存在や、家族のサポートがあって、はじめてしっかりと勉強する事ができる。試験合格は最低条件という覚悟を持って、普段通りに今日も試験に向き合える事に感謝。

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今日は誕生日

今日は誕生日。

考えるのはやっぱり父親のこと。

家族の御縁をもらい、可愛い子供達に囲まれて、生かされている事に感謝しかないこの状況を、彼らも色んな御縁に導かれて作ってくれた父親と母親。

今にして、今だからこそ思う。

父親が生きていたらきっと色んな仕事の話が出来ただろうな。自分が休みの日には彼の重労働を手伝う事も出来たかもしれない。その後で一緒にお酒を飲めたらどれだけ良かっただろう。勿論父親が元気ならそんな風にはなっていない。自身も三十半ばを迎えながらいまだに独り立ちさえ出来ていなかっただろう。


そして誕生日に願うこと。

子供たちが大きくなり、彼女たちの人生を自分で歩んでいく時には、両親にという括りではなく、感謝の気持ちが根付いてくれていればいいなと思う。

彼女たちに感謝の気持ちと共に、かけがえのない小さな幸せが寄り添ってくれる事を願う。







俳優、堤真一

俳優、堤真一

彼は甲子園球場のある、兵庫県西宮市で育った。子供の頃から野球をやっていたが、次第に興味が薄れて高校一年の時に野球部を退部。その後明確な目標を失い不登校になった。ずっと寝てばかりの生活だったが不思議と両親には怒られなかった。父親は熊本の出身でとても無口な人間、そんな父に反抗的な態度をとる事は多かった。高校を辞めると告げた時に、理由を問われて思わず暴言を浴びせた。あんたみたいなサラリーマンになりたくない、毎日同じ時間に出て行くなんてしたくない、そう偉そうに言った。その時に父親から言われた、サラリーマンの苦しみが分からない奴は何をやっても一緒や、この一言に何も言えなくなり学校に行くようになった。それから数年の後、父親との別れがやってくる。


彼が十九歳の時に父親が末期の癌になった。

養成所に通いながら俳優のオーディションに合格し、東京に行く事になったのもその時だった。彼は東京に行く前日に父親の病室を訪れた。彼は必死で馬鹿話を披露した。父親はしばらく静かに聞いていたが、車はコインパーキングに留めているのかと確認した。そして、一時間を超えると料金がかかるから早く行きなさいと言った。まだ十分程しか経っていなかった。そして、彼にも話す事がなかったので、僕はもう行きます、明日東京に行きます、と言った。

病室を出る間際だった。

元気でな、と父親が言った。

振り返る事ができなかった。

父親の顔が見れなかった。

廊下に出て泣き崩れた。

もう会えないと理解していた。


役者として一番苦しかった三十代四十代、この時が彼にとって一番父親について考えた時期だったという。ある時父親のどこが嫌いだったのかと考えた時に、何一つ見つからなかった。そして、子供の頃から自分は父親が大好きだった事を思い出した。団地の二階から仕事に向かう父親の後ろ姿が何より大好きだった。小学二年生の時に父親には栄転の話があったが、友達が変わるのは嫌だと言うとあっさり断ってくれた。そのおかげで、子供の為に、文句一つ言わない、無口でかっこいい父親は、定年まで平社員だった。


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